槻欅

私について、色々と。

大学受験の総括

序 回帰

 私は、たしかに試験に合格したのであるが、しかし「合格体験記」をお書きになっているおおかたの合格者と異なり、英雄譚は書き得ない。それは、私に謙虚さがあり、傲慢さがあるからだ。

 私が合格したのはどれも地方国立大学であり、いわゆる駅弁大学である。旧帝大をはじめとする難関大学の合格者ほどの戦果を上げたわけではないから、鬼の首を取ったような態度をするつもりはない。実際に、旧帝大たるH大学は不合格であった。だから、私は英雄譚を書き得ない。しかし、そう言うと、いかにも私が難関大学に合格しなかったことに不満を抱いているような印象を与えそうだが、それは全くの見当違いだ。私は、四校の地方国立大学に合格し、N大学に進学できるというだけで十分に満足であるし、むしろ、いきなり大出世などしないで良かったとすら思っている。

 読者には高慢な表現を許して頂きたいが、私はこの合格に対して当然の結果だと思っている。これは、受験前から合格への確信があったということではない。それどころか、全滅することを想定して、来年度、再度挑戦することすら念頭に置いていたほどである。また、親や師への恩を忘れたというわけでもない。私は、編入学試験において、自身に相応の評価がなされたと思っているのだ。私は、淡々と合格し、あるべきところへ帰り、あるべき姿になる。私の席は元来、そこにあるのだから。したがって、どん底から成り上がるような、「逆転合格」のような英雄譚は、ここにはない。

 昨年、私は四校の編入学試験で合格を勝ち取り、晴れて国立大学への入学が許された。遂に私は最低限の尊厳を取り戻すことができたのだ。ここで言う、最低限の尊厳とは何か。それは、端的に言って、学生として堂々と意見を主張できる程度の自信といったところである。大学に入学してから約二年の間、私はこれをほとんど喪失していた。言い換えると、浪人を終えるまでは、多少なりとも自信を持っていたのだ。大学生であるよりも浪人生である方が自信を持てるというのは奇妙な話だが、その自信の源が中学受験における成功とそれに付随する将来への展望であると説明すれば理解できない話ではないはずだ。私の自信は、中学受験の前後において最高潮であった。最高潮というと、灘や開成あたりから嘲笑されそうな被害妄想に駆られるが、それでも一応は難関校とされていたし、伝統ある進学校だ。旧帝大や医学部医学科への進学もそれなりにあり、校内順位下位でも地方国立大学には引っかかる。また、自由な校風であり、その点において、大阪星光や六甲、清風などの管理の厳しい学校とは決定的に違うのだという自負があった。そう、自負である。この感情は単なる愛校心に留まらない。なぜなら、自由であることが、私がこの学校を選んだ最大の理由であり、小学生の時分に、自由を重視する価値観に基づき選択をしたことそのものが誇りであったからである。受験難易度や大学進学実績に加えて、自由な校風とその良さがわかる自分こそが、中学受験前後の最高潮な自信を作り上げた。そして、その余熱は絶えることなく、中学校退学以後も私の中にあり続けた。

 中学校退学後、季節は夏から冬へ移ろい、不愉快極まりない内申制度に阻まれて高校受験を盛大に失敗し、名も知らぬ高等学校へ進むことになった。しかし、些か自尊心が傷付いたものの、築き上げた自信は緩やかに退潮するに留まった。所詮高等学校など何処に行こうがさほど問題ではなく、問題は大学であるのだと言い聞かせた。そのような名も無き高等学校には何一つ期待をしなかったから、高等学校入学直後から大手予備校に通った。次第に、無意味な高等学校に拘束される生活に嫌気が差して、退学した。卒業まで一年弱であったが、そこを正式に卒業するということはかえって私の築き上げた自信を傷付ける気がした。時間を有意義に使いたいということはもはや建前に過ぎず、自信を純化させるために辞めたと言っても過言ではないだろう。

 また、私が優秀な高等学校へ進学できなかったのは、おおかた内申制度によるものなのだから、私の学力が否定されたわけではないと、自身を擁護したりもした。しかし、たしかに、三年の途中から転入したことや内申制度との強烈な不和が起因した敗北であることは、模試において県下トップ校も合格圏内であったことから明らかではあると思うが、一方で、中高一貫校において培った「副教科は無駄である」という価値観の実践やほとんど全ての学習がより高い水準で既習であったことによる慢心も多分にあったのだろうと思う。特に、その慢心は高等学校においても引き継がれ、慢性的な努力不足を引き起こす。自信は慢心ともなり、まさに諸刃の剣であるが、それでも私は最後まで、そのかつての栄光による自信に支えられ続けた。いや、支えられたと言うより、引っ張られてきたと言ったほうが正しいのだろう。

 読者の中には、なぜ私がそこまで国立大学に固執するのか、理解できない方もおられるだろう。これは大変な難問である。というのも、私はその問いに対する答えを多岐に渡って持ち合わせており、なかには私の経験や人間関係に基づいた感性も含まれている。また、それら答えは複雑に入り交じり、相互に影響し合っている。この固執は、究極的には私の人生を追体験してもらわねばわかるまいという、半ば諦めの気持ちさえある。いつしかこれを言語化し、お披露目できればと思うが、ここでは一つの答えを出しておきたい。それは、先にも述べた通り、最低限の尊厳の回復である。それでは、私立大学生には最低限の尊厳がないのか、つまりは、学生として堂々と意見を主張してはならないのかと非難されそうであるが、そうではない。最低限の尊厳があるのか、ないのかということは、あくまで私の主観的な、自分だけに課した基準でしかなく、何ら一般化し得るものではない。意見することに、国立大学生か私立大学生か、大卒であるか否か、国民であるか否か、何かであるか否かが全くの無関係であることは言うまでもない。

 では、何故、私は自身の最低限の尊厳に国立大学生であることを課すのか。何故、私は国立大学生でなければ、堂々と意見を主張できる程度の自信を持てないのか。それは、今までの自信の源であった中学受験の成功に付随する将来への展望を実現する必要があるからである。

 中高生当時、将来への展望は「国立大学」よりも高い位置にあった。父がKS大学出身であることもあり、旧帝大やKB大学あたりの難関大学を意識していた。しかし、現実的に厳しいことを悟り、浪人一年目に実現し得る最低限の水準として、その展望を修正した。要するに妥協したのである。新たな、そして、これだけは譲れない最低限の水準とした「国立大学」の根拠は何か。それは、あの学校において校内順位下位であっても地方国立大学程度なら約束されているというところにある。中学受験における成功とそれに付随する将来への展望を自信の源とし、心の拠り所としてきた。しかし、それにも限界があるのだ。気が付けば、中学受験はもう十年近くも前の話であり、そして、大学受験の答え合わせはもう目前に迫っている。大学受験があるからこそ、中学受験による自信には意味がある。大学受験を敗北した者の中学受験における成功など過去の栄光に過ぎず、一体、今後何の糧となろうか。もう、そんなものにすがることはできない。少なくとも、同水準のものに塗り替える必要があるのだ。私は、大学受験において、あの学校の成員に足る結果を残さなければならない。成員に足る結果とは何か。それはつまり、校内順位下位であっても約束されている地方国立大学合格である。これが、国立大学に固執してきた理由の一つである。

結果と省察

 観念的な話は止めにしよう。まずはじめに、今年度入学試験受験の結果をここに明らかにしたい。

  1. HS大学文学部人文学科歴史学コース日本史学分野 不合格
  2. O大学経済学部(地域システム学科) 合格
  3. N大学環境科学部環境科学科(環境政策コース) 合格
  4. KGW大学法学部法学科 合格
  5. KT大学人文社会科学部人文社会科学科人文科学コース(歴史・地理学プログラム) 合格
  6. H大学法学部 不合格

 ※日程順

 ※括弧内は出願時に選択を求められないが、志願書等で言及した所属志望先

 実際は、二十校以上を検討しており、少なくともこの二倍程度は受けることになるのだと覚悟していたが、思いの外、立て続けに合格したため、六校の受験に留まった。SS大学人文学部歴史学コース日本史分野、K大学法文学部法経社会学科地域社会コース、E大学法文学部人文社会学科人文学履修コースについては、既に受験料を納めていたが、合格の知らせを受け、受験を辞退した。また、受験を辞退した大学を含め、いくつかの大学の志願理由書は、結局、使わず仕舞いとなった。受験校の学部系統は、文学部系、社会学部系、法学部系、経済学部系と比較的広く、同一学部系でも大学ごとに特色が異なるため、志願理由書にバリエーションを用意する必要があった。おそらく、この度の受験で最も労力を費やしたものが志願理由書である。志願理由書は、大抵締め切り一ヶ月前に原案を完成させるようにした。一ヶ月前に原案が出来上がれば、かなり余裕のあるようにも見えるが、そうでもない。私は編入学試験専門の予備校に通っていたため、仕上がった原案を持っていき、添削を頂いていた。添削で指摘された点を修正し、再び、その一次修正案を持っていく。そこで指摘された点について、再度修正する。そして、出来上がった二次修正案を清書として提出するというのが、おおかた決まった手順であった。以前のように、毎日予備校に入り浸る生活がなかなか叶わない社会情勢においては、これらの手順に一ヶ月は要するというのが実感であった。

 ここで、用意した各志願理由書のテーマをお示ししたい。

  • 水俣病事件の社会運動」KM大学文学部
  • 「戦前の労働運動史」HS大学文学部
  • 水俣病事件の社会運動」N大学環境科学部
  • 「戦前戦中の思想弾圧(大逆事件など)」KT大学人文社会科学部
  • 水俣病事件の社会運動」E大学法文学部
  • 「地域社会(水俣病事件を踏まえ)」O大学経済学部
  • 水俣病事件の社会運動史と1968年」SS大学人文学部
  • 「定員割れ地方議会と町村総会」KGW大学法学部
  • 「定員割れ地方議会と町村総会」Y大学人文社会科学部
  • 「定員割れ地方議会と町村総会」H大学法学部

 ※制作日時順

 ※学科以下省略

 最も多用したテーマは、「水俣病事件の社会運動」であり、「地域社会(水俣病事件を踏まえ)」と「水俣病事件の社会運動史と1968年」を含め、水俣病事件に関するテーマが半数を占めた。これは、私が以前から特段、水俣病事件について関心を持っていたということに由来する現象ではない。水俣病事件をテーマとして持ち得たのは、偶然の産物であった。

 昨年六月某日、いつものように各大学のホームページを徘徊しながら編入学試験の募集要項が出ていないか確認していたときのことである。合格者をあまり出さないことから、無意識に視野の外に追いやっていたKM大学のホームページを何気なく閲覧した。すると、そこに文学部第三年次編入学試験の募集要項が確認された。眼中になかったとはいえ、まだまだ先だと思っていたものが既に出ていることに驚いた。私の記憶では、例年、文学部も法学部同様に秋に試験があるはずであったからだ。秋には、KM大学に限らず、多くの国立大学文系学部が編入学試験を実施する。そのような多忙な時期に、わざわざ合格者をほとんど出さないKM大学など受ける余裕はない。しかし、夏に試験をするとなると話は違ってくる。ほとんど試験のない夏であれば、腕試し、あわよくば合格を、という気持ちで受けることも十分考えられる。そこで即座に募集要項を印刷し、願書の提出期限を確認した。明日である。明日、郵便局に持っていけば間に合うのだ。一切何も用意しておらず、絶望的な状況であるが、しかし、願書を出したからには僅かながらでも合格の可能性はあるはずだ。その夜、私は徹夜で志願理由書を作成した。

 「KM大学だからKM県特有のテーマを扱った方が良いだろう。そうだ、水俣病だ。しかし、水俣病ではあまりにも漠然としている。社会運動についても興味があるのだから、水俣病事件の社会運動について、ではどうだろうか。」

 このような直感から生まれたテーマが、「水俣病事件の社会運動」である。徹夜で書き上げた志願理由書は、他の書類不足のために出願が叶わず、日の目を見ることはなかったが、これが後のN大学やE大学などの素案となった。また、志願理由書作成過程で、水俣病事件に関していくつかの書籍で学習した。そこで知り得た知識や視点を踏まえ、社会学系のものとして直感から生まれた水俣病事件というテーマを、政策学系や歴史学系へ派生させ、O大学やSS大学にも用いた。これはむしろ、それぞれ全く別のテーマを用いるよりも、効率が良いように思える。というのも、志願理由書のみならず、面接等においても、テーマに関して特定学部の領域に留まらない知識を持ち得ることができる。引き出しは多いに越したことはないだろう。

 ここで、HS大学文学部の敗因について触れたい。HS大学文学部もKM大学文学部同様に夏に編入学試験が行われる。これについては、例年そのようであり、腕試し、あわよくば合格を、と以前から目星をつけていた。HS大学文学部人文学科の編入学試験では、コース、分野ごとに外国語が課されるものと課されないものがある。私は、大学受験の一般選抜においても、いや、中学生の時分から英語が大の苦手であった。したがって、何としても英語は避けたかった。英語が課されないコース、分野の中で、最も関心のあるものが、歴史学コース日本史学分野であった。歴史学コース日本史学分野では、筆記試験は日本史しか課されない。しかし、実際に志願理由書を作成するにあたって、非常に難しい局面に立つこととなる。近現代史以降を専門とする教授がいないのだ。私は、日本史にもそれなりに興味があるのだが、それも近現代史以降の話である。日本史学分野の三人の教授の中で、一番新しい時代でも幕末、明治維新を専門とする方である。困り果ててしまったが、それでも受けないよりは受けたほうが良い。私は、当時読んでいた大河内一男『黎明期の日本労働運動』から黎明期の労働運動と民権運動に関連性があることを読み取り、黎明期の労働運動史をやるには明治維新を学ばなければならないという、いわばこじつけを志願理由書と面接において展開した。したがって、労働運動史をやるなら経済学部でも良いのではないか、法学部でも法制史があるのではないか、うちは労働運動史の専門はいないが一人で勉強していくのか、など当然の指摘を受け、当然、不合格であった。また、感染症の厳しい社会情勢から、オンラインの面接のみとなり、筆記試験がなくなったこともあり、学問的な不一致は決定的かつ絶対的な敗北をもたらした。

 翻って、N大学などの合格した大学を見るに、ある程度の学問的な一致が見いだせたように思われる。それは、志願理由書において苦しいこじつけをやらずに済んだということだけでなく、面接における反応からも見て取れた。とりわけ、N大学環境科学部編入学試験における面接では強い手応えを感じた。

 私は、本格的に編入学試験受験を検討した当初、社会学部系や文学部系も視野に入れつつも、基本的には法学部系を中心に受験を考えた。特に法学部に強いこだわりがあったわけではないが、法学部に在籍しているため、自ずと若干、法学部への傾向があった。K大学法文学部、E大学法文学部、KGW大学法学部あたりが、主として考えていた受験校である。しかし、一方で、全滅は避けたい。何としても何処かへ合格しなければならない。受験の機会があれば、最大限利用せねばならない。そのような危機感が高まるにつれ、法学部への傾向は次第に弱まってきた。私は、中央ゼミナールの『大学編入 データブック』を穴が開くほど入念に読み込み、許容し得る大学学部について目星をつけていった。全滅への危機感が高まるにつれて、その範囲は広がり続けた。法学部、社会学部、文学部だけでなく、経済学部やその他、独特な学部、理系学部にまで目を通すようになった。そこで、はじめて受験を検討したのが、N大学環境科学部環境科学科環境政策コースとO大学経済学部地域システム学科である。おそらく、願書の締め切りまで一ヶ月ないし二ヶ月であった。二校とも、受験日は九月上旬と比較的早いため、本命であったK大学などには被らない。最大限受験の機会を活用するならば、受けないわけにはいかない。N大学もO大学もそのような経緯で、比較的遅い段階で受験を決めたのである。

 話を戻し、N大学環境科学部編入学試験における面接であるが、これは実に楽しいものであった。もちろん、受験それ自体には大変緊張した。筆記試験に至っては総合問題という、数年間の受験経験においてもはじめて受験する科目があり、予備校にも過去問題が無いため、未知の領域であった。ちょうど前日であったO大学経済学部の試験では、受験者数が昨年の倍近く、心なしか英語も難しく感じていたため、一般的にO大学よりも難しいとされるN大学はいかほどか、恐ろしいものがあった。しかし、蓋を開けると総合問題は環境問題に関する基礎的知識であったり、読解や計算など比較的解きやすいものばかりであった。英語に関しても、この私ですら簡単に思えたほどで、拍子抜けであった。だが、安心するのは早計だ。きっと平均点も高いに違いないのだから。そのように気構えて挑んだ面接は、後に私が進学先をN大学に決める一因となるようなものであった。

 待合室で順番を待つ。周囲には、スーツ姿で、この暑いさなかにネクタイまで締めた受験生ばかりである。昨日の大分大学では、面接がないのにもかかわらず、同様にスーツの群れであった。このいかにも現代日本の病理のような光景の中では、私のようなカジュアルな装いをすると何だか後ろめたい気持ちにさえもなる。順番がまわり、面接室の前に移動した。一つ前の受験生が面接室から出てきた。「私の番だ」ドアを軽くノックして、面接室に入る。室内には、フェイスシールドをした三人の面接官を向かえに一人分の座席が用意してあった。「どうぞ」と言われ、荷物をおいて着席し、受験番号と氏名を告げる。まずはじめはどこも決まりきっており、面接官の一人が志望動機について問う。志望するに至った経緯、どのようなテーマに関心があるのか、一通り話した。話し終わり、一人の面接官が先程の話で出た話題について質問をして、それに応答した。三人の面接官は皆、私が応答を行っている際は相槌を打ち、自身の話が通じているのだという安心感があった。順調な駆け出しである。また、応答の中には長々と話し過ぎたといったこともあり、「しまった」とも思ったが、意外にも一人の面接官は「よく勉強しておられる」と言って、他の面接官と顔を見合わせた。私は、そのように褒められたことが、たとえそれがお世辞であったとしても、嬉しくて堪らなかった。あとはもう、楽しくなって話し続けた。入学したらどのような勉強がしたいかと問われ、シラバスを見て興味を引いた講義や入りたいゼミなどを答え、それらをどのように「水俣病事件の社会運動」の学習と研究に繋げるかなどを話した。卒業後はどうしたいかと問われ、志願理由書では公共政策大学院としていたが、専門職大学院だけでなく、通常の大学院にも関心があったため、その迷いをそのまま全て話した。N特有の環境問題についてなにか知ってるかと問われた際は、諫早湾干拓事業について頭に浮かんだものの、これについては不勉強であり、極めて基礎的なことしか知らなかったため、原爆の後遺症について答えた。しかし、あとになって、やはり諫早湾干拓事業について言及しておきたかったと少々心残りである。ともかく、楽しげに話しているとすぐに十五分が経ってしまった。ありがとうございましたと一礼して、面接室を出た。試験後の開放感というものは、いつだって気持ちの良いものだが、ここまで充実感があることもそうそうない。合否などよそに、原爆資料館平和公園に寄って、ちゃんぽんを食べ、快く帰路についた。

 そうしたN大学での強い手応えに比べれば、KGW大学では多少の心許なさがあった。志望動機について語ると、本当にそれだけの理由で便利なHG県からKGW県に来たいのかと、随分と訝しまれた。これについては、その面接官の顔が晴れるほどに説得できる理由を持ち得なかったため、ただひたすらその旨を押し通すしかなかった。しかしながら、香川大学の面接では、一つだけどうしても忘れ難いことがある。一人の面接官に、高等学校を退学した件について、もし差し支えなければ教えてほしいと問われた。ちなみに、N大学でも高等学校退学について問われ、同様に「差し支えなければ」という配慮の言葉が添えられていた。面接においては、時間が云々、自信が云々といういかがわしい話はできないため省略し、友人が体罰にあったことや友人が退学したことなど、荒んだ高等学校生活の一幕を主に話した。もちろん、嘘ではない。これも一側面であるのだ。N大学では、「そうですか」と、すぐに他の話題へ移行した。しかし、KGW大学では、質問をしたのとは別の面接官から「私も大検で大学に入学したが、ここで教授として働いている。ぜひ頑張って。」という激励を頂戴した。私は、面接においてこれほど心温まる言葉を投げかけられたことはない。その言葉が忘れられず、私は最後までN大学とKGW大学から入学金を納める先をどちらかへ決めることに悩み続けた。

 KT大学人文社会科学部の編入学試験であるが、これについては志願理由書以外には何も語り得ない。なぜなら、出願後、私の志願した人文科学コースは筆記試験も面接も中止し、志願理由書のみで合否を判断するとしたからである。高知大学の志願理由書には、「戦前戦中の思想弾圧」について書いた。これについても、大枠としてそういったものに関心があるものの、特段こだわりがあったわけではなかった。

 KT大学人文社会科学部の編入学試験は、本来、小論文と面接だけであり、英語を課していない。そのため、早い段階から受験を決めていた。受験の検討から願書の締め切りまで時間的余裕が十分にあり、自身の関心ごとをいかに教授の専門に寄せるかというよりも、複数人の教授の専門から、論文などを通して、最も関心のあるものを選び、自身の関心ごとにするといった方針をとった。ある方の専門とされている戦前戦中の治安法制に関する論文を読み、そこから派生させて「戦前戦中の思想弾圧」について、いくらか学習し、テーマとした。そうして志願理由書を練り上げ、さて、あとは小論文と面接だと思えば、それらは中止である。八百字の志願理由書だけで合否が決まってしまった。合格は喜ばしいが、何だかやりきれなさが残った。

 約二ヶ月の間を起き、H大学法学部の編入学試験の日が訪れる。前年度同様、第二年次編入学試験だけを受験した。ただ、前年との違いがあるとすれば、それは小論文が前年よりも書けるようになったという点である。

 一昨年十一月、ほとんど腕試しとして受験したこともあり、全く対策をしなかった。それでも、以前から小論文はそれなりに評価を得ていたこともあり、小論文に限っては何らかの手応えのある成果を出せるだろうと高を括っていた。初めての編入学試験、開始の合図が出る。問題冊子を開き、文章を読み、問に答える。それは今までの試験、つまり、大学一年生の当時としては、河合塾での模試やHS大学法学部のAO入試と何ら変わらない構成であった。しかし、しばらく書いて時計を見て驚く。今までよりも明らかに分針の進む速度が早いのだ。焦って続きを書こうとするが、筆のほうは一向に速度が上がらない。「これは駄目かもしれない」なんとか空白を埋めようと支離滅裂な思いつきを書きなぐるが、まだまだ半分もまっさらなままだ。これまで一度も小論文の試験で時間が足りないなんていうことはなかったが、私はこのときはじめて答案を完成させることができなかった。これが、旧帝大の、あるいは、編入学試験の厳しさかと呆然とした。

 そして、昨年十一月、再び私はHの大地に立った。そのときにはすでに、四校の合格が明らかになっていたため、悲壮な顔で受験せずに済んだ。それに、半年間、予備校に通い、演習を積んできたのだ。週に一度、小論文の講義の度に、教材や過去問題から選んだ二題ほどを取り組み、答案の添削頂いた。添削された答案が返されるたびに、評価や講評を見て一喜一憂するのがささやかな楽しみであった。そうして作り上げた答案が三十ほど、今でも手元にある。小論文の試験がはじまり、無我夢中で格闘した。やはりKGW大学やO大学とは一味違う。それでも、ほんの数分を余らせ、なんとか書き上げた。明らかに前年度とは違う手応えは、この一年間を可視化した。このときの答案が合格圏内であったかは、他の受験生のそれを見たわけではないため、定かではない。しかし、小論文の出来不出来にかかわらず、私は落ちるべくして落ちたのだ。それを決したのは英語である。

 私は、英語について、はじめて学んだときから並々ならぬ嫌悪を持っていた。はじめてと言っても、中学校ではない。小学校における、いわばお遊び程度の授業が苦痛で堪らなかった。「でぃすいずあぺん」だの「わっとでゅーゆーらいく」だのわけのわからない呪文のようなものを空で言わせられる。文法的な解説が全くなされなかった。意味不明な呪文を喋って、もし間違えればどれほど恥ずかしいことか。おそらく、英語に慣れ親しませることを目的としているのだろうが、私にとっては英語に対する嫌悪、いや、敵意さえも植え付けるものにほかならなかった。しかし、残念なことに今日の受験では、英語は必須条件となっている。英語を避けて通ることなど、不可能と言っても過言ではない。私は終始、英語を足枷としてしまった。最後まで克服することはできなかった。大学受験一般選抜における最大の敗因は英語であり、また、H大学法学部の編入学試験でもそうであった。

 英語の何が苦手かと問われても、全てとしか答えようがない。単語から読解まで総じて不自由である。不自由な私が、その躓きの原因を明解に分析などし得ないが、しかし、一つだけ明らかなことがある。それは、十分な勉強をしていないという極めて初歩的なことである。単語帳を適度にめくったりするが、全く頭に入らない。読解問題を解いても解きっぱなし。授業を受けてもノートを見ない。そして、なにより、勉強時間が極端に短い。振り返ると私は、繁忙期でさえ、勉強したのと同じだけ「自由時間」を欲した。そんなことでは、当然、成績を上げるなど困難であろう。それでも今年度は、不十分ながらも例年よりは英語に触れる機会も多かった。

 はじめて予備校の講義に出たとき、目を見張った。それは英語の一講座であるのだが、受講者が三人である。少人数だとは聞いていたが、これほど少ないとは。私が通った予備校は、ECC編入学院という、編入学試験専門の予備校では名の知れた、おそらく業界一位か二位の予備校である。そこでさえも、受講者三人という驚異的とも言える少人数講義がおおかたであった。その英語の講義は、事前に読解問題を解かせた上で、一文ずつ受講生に訳を言わせながら解説をするという方針をとっていた。したがって、受講者三人であるため、解答したあともすぐに自分の番が来る。講師は大変人当たりが良く、答えられなかったからと言って、怒ることも貶すこともない。しかしながら、他の受講者の目もある。わからないを連発するような恥ずかしい真似はできない。私は講義で恥をかかぬため、読解問題の解答はさることながら、本文の全訳も怠らなかった。かつて、河合塾の英語で、ここまで「熱意」を発揮したことはあっただろうか。しかし、それでも、講義の外では今まで通り、一歩前進しては一歩後退するような性と決別できなかった。ここに、N大学、O大学、KGW大学は突破できても、H大学はそうはいかないという境目があったのだろう。英語に限らず、根本的な学習に対する姿勢として、日々着実に積み上げる勤勉さが欠如していた。克服すべきは英語ではなく、学習全般に対する姿勢そのものである。

跋 飛躍

 私はこれまで、どのように受験をこなしてきただろうか。それは、力尽くさずして挫けることを辞さないが、力及ばずして倒れることを拒否し続けたものであった。大した努力をせずに、しかし、そのつけ、つまりは不合格を徹底的に拒否し続けた。至らなさを拒否し、無視し続けた先に、遂に私は編入学試験受験しか手段を持ち得ないところまで追い詰められていた。背水の陣であった。しかし、背水の陣に際して、心を入れ替え、劇的な変化を遂げたかといえば、そうではない。そうではないが、予備校に通ったことが功を奏し、感染症の社会情勢が私を「不自由」にしたことなどが相まって、結果としては受け入れられるものであった。選択や状況がどれほどの差をもたらしたのかは、わからない。実際は些細な差に過ぎなかったかもしれない。それでも、少なくともこの半年間がなければ、今日の四校の合格を成し得なかったことは明白である。

 最後の編入学試験受験を終え、私は、昨年十一月十二月と今までに類を見ないほどに読書へ時間を費やした。約二ヶ月の間に三十冊近く読破した。無論、大して威張れるほどの量ではないが、今まで受験という大義名分でまともに読書をしてこなかった私にとって、劇的な改心であった。父は読書家である。私が中学の時分から、よく推薦図書を与えてくれたものだ。しかし、そんな親心もわからず、ほとんどそれらを読むことがなかった。受験生なんだからと、その大義名分の裏に罪悪感は隠れていった。なんとも子どもじみていたことか。気がつけば二十歳を過ぎ、大学生活も折り返し地点に差し掛かろうとしている。だというのに、私は空虚なままである。なんとなく勉強している風を装っているつもりだが、しかし、筆と紙を持つと、あるいは分厚い書籍を開くと、いかに私が張りぼてであるか、自覚するのを余儀なくされる。私が自信の上にあぐらをかいていたころ、きっと本物の先鋭は何百冊、何千冊も本を積み上げてきたに違いない。

 私も遅ればせながら、ようやく本を積み上げはじめた。

「二年連続不合格者主席」

 二年連続で不合格者主席だった。

 2019年春、おおかた受かるだろうと思っていたK大学に落ち、近所の私立大学へ進学していた。中学や高校の時分、まさかそこへ通うことになろうとは思わず、内心小馬鹿にしていた大学である。入学間もない頃は、朝、目が覚めれば、Kにいるような気分だった。こんな屈辱は受け入れられない。

 約一ヶ月後、初夏、成績開示の通知が届き、呆然とした。81位、646.75点。まず、81位という数字を凝視した。なぜなら、合格者が80人であったことを知っていたからである。言葉が出なかった。加えて、合格最低点を見ると、648.25点とある。1.5点差だ。当時は、これらの数字だけで思考停止していたが、仮面浪人を決めた後の一年弱、あの問題さえ、あのとき二択まで絞って迷ったこれさえ合えば、と苦しみ続けることとなる。一問は本当に重い。

 大学では基本、友人を作らなかった。唯一の友人かつ仮面浪人仲間である理工学部の彼を除けば、編入を考えていると言っていた一人、第二外国語で隣の席に座っていた一人と多少の情報交換をする程度の交流しか持たなかった。講義のない日も足繁く大学に通い、図書館などの自習スペースに大量の過去問や参考書を置き、朝から晩まで座席を分捕っていた。一日ではやりきれないような、持ちきれないような量を毎日、大学へ運んでいた。そればかりか、講義前後の休み時間は当然のこと、講義中にまでわざとらしく机上に赤本や黒本などを積んで受験勉強に勤しんでいた。嫌な奴である。

 そうした「努力」も虚しく、センター試験の成績も芳しくなかった。しかし、ここまで来たらどこか国立に受かりたい。そこで、前期は、いかにも入りやすいと思えるS大学に出願した。昨年の倍率は1.7倍、よほどのことがない限り、いけるだろうと高を括っていた。しかし、センター試験最後の年ということもあり、よほどのことが起きた。倍率4.4倍。高を括っているほどに舐めていたこともあり、案の定、落ちた。そして、後期はK大学。普通、後期は前期よりも入りやすい大学にするのが定番であるが、S大学よりも入りやすい国立大学はなかなか無い。もし前期に落ちたら、駄目で元々、因縁のK大学で美しく散るか、とでも考えて出願した。合格発表日、やはり私の番号はなかった。

 2020年春、主戦場を編入に切り替えることにした。さすがに三浪を主戦場にはできまい。外出自粛だの、オンラインだので先行きが見えない中、以前から頭の片隅で考えていた編入予備校へ通うことを決意した。とは言うものの、しばらくは端末を見ながら受講する日が続いた。

 そして、初夏、お待ちかねの成績開示である。どちらが先に届いたかは記憶が定かではないが、まずはS大学。順位は真ん中ほど。倍率が4倍であるから全く惜しくもない。去年なら受かっていたかもしれないなという程度だった。

 K大学から封筒が届いた。あまり気が乗らない。落ちたからというわけではなく、不合格者主席だった昨年よりも遠のくことを確信していたからだ。粋な負け方なんて調子の良いことを言うつもりはないが、普通に落ちるよりも話題性があり、合格者ともさほど変わらないのだと自尊心も保たれる。しかし、ここで普通に落ちてしまえば、そんな「栄光」も上塗りされ、廃れてしまう。しかし、封筒を開ければ、面白いものが飛び出してきた。16位、547.45点。目を疑った。確か、今年の定員は15人だと。そう思い、調べてみると、やはり定員は15人。前年度から5人減らされた15人だ。そして、辞退者が3人いる。合格最低点からは1.55点であるから、点数という意味では去年よりも遠のいたが、本来、追加合格されてもおかしくないところにいたのだ。これはもう、去年の成績も含めて、事実上の合格と言っても良いではないか。そうは言っても、不合格である。今年も去年と同様、不本意な大学に通い続けなければいけないのだ。もはや、残念だとか、悲しいだとか、そんな感情は湧いてこない。呆れた。呆れを通り越して、なんと愉快な人生か。こんなことはなかなか無いぞ。二年連続不合格者主席を肩書にして生きていこう。同じ大学に二年連続ギリギリで、落ちる人なんてそうそういないのだから。

 反面、不安もあった。編入試験もこの調子で落ちるかもしれない。今年落ちたらどうするか。編入浪人をしよう。では、来年も落ちたら。編入試験は大学が個々別々に行うため、なかなか試験日が被らない。そこで、受けられる分だけ受けようと思った。国立大学文系の試験日を片っ端からカレンダーに書き込んだ。10月、11月は毎週末が試験日になった。北は北海道大学、南は琉球大学まであらゆる国立大学を検討し、学部も法にとらわれず、文、経済など広く考え、それに合わせていくつかのパターンの志願理由書を作成した。編入は偏差値も出ず、未知数なため、どれだけ受けても全落ちもあり得る。それが不安で堪らなかったのだろう。

 しかし、そんな不安もよそに、結果は快調であった。怖いくらいに。9月に受けた、O大学経済学部、N大学環境科学部、KGW大学法学部、KT大学人文社会科学部、すべてに合格してしまった。学問分野がてんでバラバラである。また、O大学やN大学は直前になって思い立ったものであり、とにかく受けられるだけ受ける一環のものであった。こうも上手くいってしまうものなのか。本当にそうか。

 

 本来ならば、今、幸せなんだろう。新たな人生に期待を膨らませているのだろう。

 私はそうもいかなかった。いや、たしかに合格までは幸せだった。しかし、このまま、約半年後に期待を持って良いものかと、私の本能は懐疑的である。この幸せが、唐突に壊れる日があるのではないだろうか。その心当たりも無いわけではない。いつもであればさほど心配していなかった事柄が、あれは、これはと思い浮かぶ。今まで、いかに適当に生きてきたかを痛感する。自身の醜さに目を覆いたくなる。そして、念願叶って、やっと国立大学に合格した子の幸せを喜んでいる親への申し訳なさで胸がいっぱいになる。幸せを手にして、はじめて自分の醜さに本気で向き合った。

 幸せなうちに死んでしまえたら。最近は、そんな言葉が頭の中をぐるぐると巡る。



 

初めての、いつもの春

 今年もまた、心晴れない春が訪れた。一年間、一般やAO、編入と可能な限りのあらゆる手段を尽くしたが、惨敗である。まさか落ちるものかとも言えるほどに譲歩して出願した国立前期も、やはり、あっさりと落ちてしまった。前年度の倍率が1.7倍であったのに対し、今年度のそれは4.4倍である。勘弁して欲しい。だが、なんにせよ、成績開示を通じて真相究明し、次なる闘いへと繋げていかなくてはならない。

 さて、昨今のコロナ禍のもと、外出は制限され、大学の講義は延期、変更され、到底春を感じることなどない。日夜自宅に引きこもり、たまに外出すれば目に見えぬウイルスに怯える、そんな憂鬱な日々が続いている。しかし、これにはお構い無しに新年度が始まり、来年度入試への本格的な闘いは幕開けしてしまった。

 前々から表明していたことだが、今年は編入試験を主とした新しい闘いを展開していくつもりだ。この春から、ECC編入学院という編入予備校に通うことも正式に決定し、ただいま手続き中である。編入試験は国立大学合格への最終局面だ。何としてでも成功させなければならない。その危機感、当事者意識を最後まで持ち続けるため、本来であれば親の援助も約束されていたが、敢えて費用の全てを自己負担とさせて頂いた。勝てばありとあらゆるものを取り返し、負ければ私自身が大損するのだ。その覚悟で、最後の試験まで闘い抜いていく所存である。

 病に怯え、一歩も外に踏み出さない日が続くが、桜は満開の頃合だろう。しかし、桜なんて気にしていられないほど、世の中も私も先の見えない日々に恐怖し、焦り、疲労困憊している。いつになったら、心の平安は訪れるのだろうか。

 またしても、桜は散った。そんないつもの春だが、同時にこれまでとは全く異なることを始める、初めての春だ。

帰りたい

 これほどまでに堕ちるとは。

 街で浜学園日能研のリュックを背負った小学生を見かけるたびに、もう十年も昔の日々を回顧し、現状との落差を突きつけられ、途方もない失意に陥る。灘や甲陽といった頂点には届かぬものの、それら最上位の後に続いて行くのだという自負はあった。大抵のものは、頑張り次第で手の届く位置にあり、社会へ出る恐怖など微塵もなかった。無論、無知から来るところも大きいではあろうが、それでも一定の根拠を以て、自信と希望を胸に生きていたのだ。まさか、二十歳の自分がここまで堕ちているとは、夢にも思わないほどに。

 今の私には自信も希望もない。いつの間にか、発することに臆し、見上げるたびに劣等感に苛まれるようになった。確かに、高校受験に失敗し、名前の聞いたこともない高校に進学する羽目になった時も、一年間浪人した甲斐も虚しく、当初は妥協して志願した大学すら落ちた時も、この傾向は強まった。だが、なによりも私の心を抉ったのは、この大学に進学したことだ。今でも母校であり、「故郷」だと思い続けるあの中学を辞めたことも、高校受験に失敗し、名前も知らない高校に進学する羽目になったことも、全ては大学受験で取り返すつもりだった。大学受験で「故郷」へ帰り、新しい母校に生きるつもりだった。しかし、この有様である。母校からここへ進学する者など皆無と言っても過言ではない。取り返すことはできず、「故郷」には帰れなかった。そして、この一年、藁にもすがる思いで妥協に妥協を重ねたが、またしても、である。仮面浪人さえも失敗した今、過去の自分との深い断絶を感じ、堕落しきった自分を情けなく、もう戻れない日々を愛惜しく思う。

 街で見かける、自信と希望でいっぱいの浜学園日能研のリュックたちは、思わず目を背けたくさせるが、それでもやはり愛惜しい。

 

 ああ、帰りたい。